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私は山梨県の北部の南側が開けた高台の村に生まれた。富士山(標高3776m)は生家の縁側からも見えるため
私にとって最も親しい山であり、
子供の頃は『富士さん』だと思っていたし、
母は縁側からの富士山を『見事な富士山ですね』と誉める客に『いいえさぁ、粗末なもんですが』と謙遜してしまっていた。

望嶽台=横浜市港北区某地
現在の住処を決める時も、とにかく富士山が見えること、富士山との間に邪魔する建物が建つ可能性が小さい事をまずの条件とした。


太陽が最も南に行く時期、だいたい12月10日ころから1月初めまでそれほど位置が変わらない。
夏は、我が家のベランダからは入日は見えないので、太陽と言うのは随分動き回るものである。

太陽の左の山は箱根駒ケ岳。右の高台にある資生堂の研究所の建物は今はもう無い。
太陽は12月10日頃から約一ヶ月間、だいたいこの位置に沈む。沈む位置が箱根から離れ始めるとみるみる富士山に近くなっていく。

雪の丹沢

2005年1月。雪が多かった冬。
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2003年12月。
鶴見川は汚い川ランキングでは日本で三番目には下がらない川であるが、多摩丘陵に源を発して東京湾に注ぐとなると、
源流から河口まで両岸に人の営みが絶えることはない上、河口から10Km溯っても潮の加減で水位が大きく異なるくらい流れが緩いとあれば
それもやむを得ない。
実際渇水期には流れている水の殆ど全部が下水処理場や
工場からの排水になってしまうらしい。
さらに流域には治水専任(?)の神社が幾つもおわすという昔から常習的氾濫川であり、
これは現代に至って流域の地面は大部分がコンクリートとアスファルトに覆われた為雨が降ると文字通りあっというまに増水するようになった。
JR横浜線は雨に弱くすぐ運休するが、これは河口から16Km付近の小机-鴨居間が鶴見川に接近しており、増水により警戒水位を越えるから
だそうである。
それでも、流域の治水と水質改善には日本を代表する都市河川として結構頑張っているんじゃないかと思う。日本の端っこの方で何の利用価値も
無いがゆえに何もせずに清流とか言っている川より、身を挺して人間に尽くし、それを人間がケアしている鶴見川の方がずっと偉い。頑張れ鶴見川。
偉いといえば、越すに越されぬと歌われた水量を、水力発電のために身を枯らして日本の高度成長のさきがけとなった大井川や天竜川も偉い。
現代日本を全否定する人にとっては悪逆非道の川なのかもしれないが。
横浜市の広報誌によると、流域のアスファルト/コンクリート被覆率は85%、また汚い川ランキングは全国の全河川の中でという訳ではなく、
一級河川(複数の県にまたがる国直轄の河川)の内160余りを選んでのランキングで、その辺のどぶ川までを入れてのランキングではないのだそうである。
高層ビル
新横浜プリンスホテル42階ラウンジ

2003年6月17日
季節的に夕方の富士山がこれだけ見えるのは珍しい。右は横浜国際競技場(ニッサン・スタジアム)。
この競技場周辺の広い空き地は鶴見川水位調整池で、普段はグラウンド等になっているが、川が増水すると故意に低く設定した堤防を乗り越えた水がなだれ込み
下流の水位を上げない仕掛けになっている。
新横浜にはこのホテル以外に高層建築物がないので42階の高さからの眺めは非常に良い。
反対側の、みなとみらい地区の夜景もなかなかである。
高い所からの夜景と言うのは、真っ暗になってしまってからより、暗くなりつつある、と言う所が良い。これはエッフェル塔から眺めるパリも同じである。
勤め先のオフィスから

2005年1月18日(雪の明日)17階のガラス越し。
このオフィスからは白根三山が見える。
勿論北岳(3193m)も見えるので、日本の山の標高一番と二番を同時に見る事
ができる。厳密に言うと、横浜からは農鳥岳が見えないので白根二山である。
白根の北岳の標高は2004年10月15日国土地理院により正式に3193mとされた。これは従来の頂上とされていた
三角点(3192m)が最高点ではなく最高点が別にあったためと発表されている。
この発表後、奥穂高岳頂上(3190m)にあるという
高さ2m以上の大きなケルンが積み増されたかどうかは判らない。
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2005年12月。
新横浜駅の新幹線ホームから富士山が見えると云う事を知っている人は少ないのではないかと思う。新幹線に交差する横浜線がほぼ富士山
に向かっているため、その延長線上はビルが切れ、丹沢越しの富士山が見える。その場所は新大阪側の階段からホームに出てすぐの所の右手である。
ビルの隙間は狭いので見えるのは一瞬、通過する電車からではプロボクサー並みの動体視力でも無理であったが、2008年の3月のダイヤ改正で
新横浜駅を通過する列車は無くなったので、理理論的には旅人全て見ることが出来るようになった。
新横浜駅は2008年3月に新駅ビルが完成し営業を開始したが、この景色は保存されている。
新横浜駅はJR東海の駅だそうで、新幹線の縄張り内でのJR東日本の線である横浜線利用者への虐待ぶりはなかなかのものがある。
東のスイカは東海の縄張り内にある券売機と新幹線改札では一切使わせないなどの意地悪はまだ可愛いとしてもラッシュアワーや、
スタジアムや横浜アリーナでのイベント時の横浜線ホームの人の波の処理には問題がある。
ホームの人間を出来るだけ速やかに改札に誘導する、逆の流れは速やかに電車に乗せるよう改修しないと、今にホームからの転落などの
重大事故が起きるのではないかと心配である。
その横浜線も東急東横線との接続駅の菊名駅で快速電車を止めないのでどっちもどっちである。横浜線菊名駅もラッシュのギクシャクした
不快感を助長する構造である。
(追記;現在は新横浜駅の駅ビル側の自動販売機でスイカが使える。また横浜線快速は菊名に止まる。)

『万智ちゃんを先生と呼ぶ子等がいて神奈川県立橋本高校』;俵万智;サラダ記念日
どうしてもこの歌を思い出す、横浜線橋本駅付近から左車窓に見えつ隠れつしている富士山は終点八王子駅からも見えるが、
中央線で高尾に向かうと隠れてしまい、中央本線からの次の機会としては、大月を過ぎた初狩駅付近からとなる。
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中央線特急の車窓から
大垂水峠を越え、相模国をかすめて甲斐国に入った甲州街道は、山また山の中を進む。初狩付近も街道の富士山がある南側は屏風のように山が迫っていて、
こんなところから富士山が見えるなどとは想像もできない。実際、この意外性ゆえ江戸の昔から初狩の富士として名所扱いだったらしい。
中央線車窓からも一瞬見える。秒間3コマのモーダードライブ付きで2コマに写っていたので、大体1秒間くらいであろう。
山頂が見えるだけであるが、この山頂はかって500円札に採用されていた、最も美しい富士山頂の定評がある、三つ峠/雁ノ腹摺山からと
同角度である事がわかる。
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甲府盆地の縁の勝沼駅からは富士山は認識出来ない。富士山が富士山らしく見えるようになるのは塩山駅付近からである。
勝沼からは富士山ではなく、甲府盆地越えの白根三山/鳳凰三山/甲斐駒ケ岳の姿を鑑賞すべきであろうが、車窓からは花の季節以外は
汚いだけの桜の木と電線が執拗に邪魔をする。
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小学校の校歌にいわく
『南の空にそびえたつ 富士の高嶺は麗しく
朝(あした)夕べに窓辺より
強く育てよ少年と 微笑かけるこの胸に』
この小学校も中学校も学校統合で、今は名前も校舎もこの校歌も何もかも跡形も無い。跡地は学校ですらない。
過疎の田舎の宿命とはいえ、母校が消えてしまったというのは寂しい事である。
戦国時代に霧散し去った武田氏を今でも慕う『滅びの美学』の県民性のせいか、山梨県においては、古い建築物や遺構、地名を跡形無く
消し去るに何の抵抗も無い。それは甲府の町の現在を見れば歴然である。旅人は町名を見て愕然とするであろう。
写真で、向こう側が昭和35年頃新築の小学校、手前側の建物が中学校。占領下の6.3.3学制の新制中学設立時建てられた進駐軍様式の校舎で、
北側に窓が無い暗く恐ろしく風通しの悪い建物だった。
小学校の建築費は当時の費用で2000万円と教わった。同じ頃航空自衛隊が導入を決定したロッキードF104Jは1機4億円と聞かされて
魂消たものである。
通った高校は現在でも元の場所に元の名前で残っているが、藩校の流れを汲み、かっては甲府のお城の中に校舎があり、旧制高校並に幾つもの固有の
応援歌(甲府勤番の城、舞鶴城にちなんで『鶴城に』という応援歌があった)、逍遥歌があるという伝統校も、学区別総合選抜という入試方法で換骨奪胎され、今では校名を口にするのも憚る水準であるらしい。
その校歌は今でも同じかどうか判らないが、4分の4拍子ながら行進曲にはならない荘重なテンポ、学校の名前が一度も出てこないと言う変ったもの
だったがその三番に富士山が出てきた。
聳え立つ芙蓉の高嶺 清きかな甲斐の山河
諸共に玉と磨きて 賛くべし天地の化育
最後の賛くべしは、たすくべしと歌う。どうです、格調高いでしょう。

地元では武田氏の父祖の地は韮崎であると信じられている。
また、武田氏の人気は他県人には想像もつかない位高いので、ゆめ信玄、勝頼などと呼び捨てにしてはならないし、川中島は語っても良いが、
『天と地と』を熱く語ったり、鞭声粛々などと高吟してはならない。殴られる可能性がある。
新府は1575年、長篠で破れ、人は石垣、人は城の甲斐国を防備せざるを得なくなった武田勝頼公が天正九年(1581年)に築いた城で、
織田・徳川連合軍の甲斐侵略ルートと想定された諏訪口(南アルプスと八ヶ岳の間。この諏訪口を通して諏訪湖から富士山が見える)から
甲府盆地を守る位置にあり、甲府の古府中に対して新府と名付けられた。
井上靖の『風林火山』で山本勘介が幼い諏訪四郎勝頼公にあの丘に城を作りなさいませと薦めた場所はここと信じられている。
しかし城(要塞)は、要塞兵による白兵戦での防御を前提にしてこそ城で、城に篭って生き延びようとするには兵隊の頭数が必要である。
いざ織田・徳川連合軍の甲斐侵略を前にして、武田側にはこの城を守るに必要な数の要塞兵は既になかった。
防御できないと判っている城に篭ってもその場で殺されるだけなので、武田一族は自ら火を放ち縁戚北条氏の治める相模に向かって
古府中、大月へと落ち延びていく。しかし、行く先々で裏切りと叛旗の雨あられに遭い、武田一族は
死に場所を求めて大月から古府中側に彷徨うように引き返し、笹子峠の北、天目山に消え去る。
時に天正十年(1582年)三月十一日。この時勝頼公に従い、恩ある主家に殉じた片手斬りの土屋惣蔵昌恒は今でも甲州人に尊敬されており、
その兄で長篠に散った武田24将の一人、土屋右衛門尉昌次も24将武将行列でなりたい人が一番多いというくらい人気がある。
武田氏滅亡の始まりは長篠の合戦である。この時代、武士は人に仕えるという気風が強く、信玄公時代に武田家に仕えた多くの武将は、亡き主、
信玄公に自分が勝頼公の為に如何に戦うかをご照覧頂くため、無茶な突撃、後退不可能な深入りを行ったという説がある。確かに、長篠を織田・徳川ごと
突破すれば、京に手が届くわけで、その戦いにおいて亡き主に怯懦と思われるような振舞いは出来ない。
長篠は500年に亘る武田の恨みの地となり、新府においても長篠に散った将兵の霊が今度は新府を守るために風雲物凄い夜に鬨の声を上げたという。
この霊を慰めるため50年くらい前、長篠から分骨して慰霊碑を建てたが、それでも鬨の声はやまないのだそうで、今でも地元では風の強い夜に
『お新府さん』に行ってそこで見える”__もの__”は見た者に祟ると言われている。

富士山は諏訪湖上からも諏訪口を通して見えるので霧が峰から見えても不思議はないが、遠くで見るほど高いところに見える富士をよく現している。
左から緩やかに伸びているのは八ヶ岳の裾で、八ヶ岳山麓は武田の長槍騎馬隊の軍馬を育んだ地とされている。
現在は清里という悪夢のような場所で有名になっているが、昭和40年代でも、清里・八ヶ岳高原は実に文字通りの牧歌的な
場所で、牧場と野菜畑の間の道路は殆ど舗装されてなく、清里から野辺山に向かう国道141号線もとてつもない悪路だった。

文部省唱歌『故郷(ふるさと)』の作詩者、高野辰之は信州の生まれだそうである。私は何故か勝手に佐久の人と思い込んでいた。
佐久は霧が峰からは麦草峠を越えたところにあたる。
麦草峠は車で通過出来る峠道としては日本屈指の標高の峠で、途中の縞枯山の不思議な風景は勿論であるが、佐久側に下り始めから
佐久方面と浅間山の眺めも素晴らしい。
『故郷』は私の大好きな歌で、特に三番の最後『山は蒼きふるさと 水は清きふるさと』はたまらない。以前から
この蒼き『山』は、八ヶ岳か浅間山、浅間山を蒼きと歌うのは変だから八ヶ岳に違いないと思っていたが、残念ながら作者は信州でも
信越国境の出身で、この『山』は八ヶ岳ではないか?、という推定は間違っていた。
兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷
如何にいます父母 恙がなきや友がき
雨に風につけても 思い出る故郷
こころざしを果たして いつの日にか帰らん
山はあおき故郷 水は清き故郷
アルザスの某地で、非常にレベルが高いという評判の少年合唱団による日本の俳句に題材を取った現代合唱曲の演奏というのを聞いた事がある。
在ストラスブール日本領事館の後援だか何かで、地元日本人会経由のチケット領布があり、会場にはかなり大勢の日本人がいた。
日本でもレベルの高い現代合唱曲を連続して聞くのは、なまやさしい学問では駄目で、旦那の義太夫の会並の決意が必要であるが、それがフランス語となると
想像を絶する。
とあるワイン村の教会で行われたそのつらい演奏会の最後、故郷を遠く離れた日本人聴衆に贈る歌として『ふるさと』が日本語で歌われた。
この涙腺直撃の不意打ちには降参するしか無かった。

栄助一代記の舞台である。
甲府盆地の西の縁にあたり、かっての麦との二毛作田は、桃/すもも/ぶどうの大産地になっている。
山梨県の赤石山脈の麓沿いは北から北巨摩郡、中巨摩郡、南巨摩郡と言った。
生家のある韮崎は北巨摩郡にあたり、中巨摩や南巨摩の親類は我が家の人間には「北巨摩でぇ」と
呼びかけていた。
南アルプス市という無茶な市の名前は無論赤石山脈の別名から来ているのであるが、残念ながら南アルプス市からは赤石山脈は見えないのである。
赤石山脈の東側(山梨県側)は、2000〜2800m級の前衛峰に守られているので、甲府付近を限界に、それより近づくと前衛峰
が立ち上がってきて、3000m峰を隠してしまう。白馬山群のように麓の村から白銀の峰が見えるというわけにはいかない。
現在は林道を使って主山脈の麓まで車で行けるが、昭和30年代までは主山脈に登るにはこの前衛峰を徒歩で越えて行かなければならなかった。
白根三山へのメインアプローチルートだった赤薙沢などはそれ自身が高度で辛い登山路だったらしい。

30代の頃工場勤務となった時、同年代の同僚が皆持ち家だったので、では俺もと衝動買いした家が7年の海外赴任後、諸般の事情から期せずして
別荘になってしまった。
裾野と言う地名は富士の裾野と言う意味で、お察しの通り古来からの地名ではないが、大正年間の1915年に旧佐野駅の名称変更で付けられた
名前が裾野駅だったという古い歴史があり、ここを裾野(The SUSONO)と呼ぶに当たっては、誰にも文句は言わせないという場所だけに良い名前であると思う。
裾野駅(標高123.7m;旧名;佐野駅)は旧東海道線の足柄越えの基地であった沼津駅との標高差が約120mあり、海辺の沼津で石炭を満載、水はそこそこで出発した
蒸気機関車はここで水を補給し、更に331mの標高差がある御殿場に向かった。元々給水基地として設けられたので長大編成の貨物列車も
停車できるよう盛り土や整地、スイッチバックの土手などにより、
現在でも長さだけはめのこ1Km近い構内を持ち東海道新幹線だって止まれそうなホームもある。
ここに二両編成のワンマンカーが停車するのが現代の御殿場線である。


左;裾野駅の無意味に長いホーム。曲がっているホームの手前側直線部分は全然使われていない。
右;ホームの沼津側外れから、信号機の下の白く写っている部分は海(駿河湾)。左右にスイッチバックの引込み線土手跡が残る。
裾野駅のホームからも古風な袴線橋からも富士山が見えるが、建物と電線にスポイルされていてとても鑑賞には堪えられない。

伊豆から見える富士山同様に左に傾いで見える。この角度の富士山ばかり見ている地元の人は、富士山は傾いていて、山腹に
宝永火口のアクセントがないとつまらないのだという。
富士山は円錐形と言うけれども、勿論数学的に完全な円錐でない。北北西から南南東にかけて溶岩噴出孔が走っているため、この線に沿って長径の
楕円形を基本に東に尖ったおむすび型をしている。
従って、噴火口列線に直角な短径側のこの方向から見る富士山が
一番細く見える。左に傾いているのはこの噴出孔列からの噴出物が西の卓越風で東に流され、西側には落ちにくいため山腹が痩せているせいである。
富士山の噴火は有史以来18回記録されており、その内5回が山頂噴火、あとは山腹の寄生火山の爆発である。18回のうち3回は大規模噴火で、
1707年、宝永4年の宝永火口の爆発は約二ヶ月間に亘り、その間二回の大爆発を起こし、麓は壊滅、江戸にも灰が降ったと、新井白石は冷静に
観察記録をつけている。
富士山がその後300年間静かなのはこの爆発によるガス抜きのせいと言われているが、過去にも430年間の休止期があったこともあるので、
富士山は死んではいないとされている。次の爆発も多分、この南東斜面であろうと言う説が有力である。

富士の麓に広がる広大なススキの草原で、大縮尺地形図で見ると等高線が富士山を中心にしたきれいな同心円を描いているがその姿が良く判る。
南北縦貫道路が出来た頃の大野原。1988年11月。

東名裾野インターから十里木・日本ランド方面に登って行く20年位前に作られた観光用道路から北に望む富士山。
東名高速道路が大野原の裾を横切る辺りは、有事の際高速道路上の車を外に出せる唯一の場所でその為の設備もあるという。
左に写っている車は1988年カーオブザイヤー、グッドデザイン賞大賞受賞のS-13日産Silvia K'sで、CA18DET 1800CC 175馬力というかなり
過激なエンジン付
(日産がチェリー、パルサーといったFFのファミリーカー用に開発したCAエンジンの最後の型。オリジナルの1200CC SOHC から1800CC DOHC電子制御
インタークーラーターボ付き迄行って役目を終えた)。
FRで5速マニュアルミッション、オプションの、HicasII4輪操舵、ABS、HUD速度計(ヘッドアップディスプレイ)、電動ガラスサンルーフ、
エアスポイラーとハイマウントストップランプ、小口径ハロゲンメインビームと何でもありの楽しい遊び車。
時代はバブルだった。しかし、同じ車が今でもあれば多分また買う。この後、ヨーロッパ赴任でBMW525iに乗り換えたが、
シートポジションの違いによる目線の高さの違いから初めの頃トラックを運転している気分だった。
雪の明日;1989年1月 / 夏姿二景;1990年6月と2003年9月


1991年9月 総合火力演習
大野原から少し御殿場寄りの東富士演習場にて、国民の前に初披露目の時の90式戦車。
ラインメタル社製120mm滑腔砲の発射音でよい子達をパニックに陥らせた後の展示では監視員付ながら、
ロープも張らず車体に自由に触らせていた。
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御殿場線は東海道線国府津駅から酒匂川沿いに御殿場まで登り、ここから箱根山の西側を沼津に向かって駆け下るという、海辺の
駅から海辺の町の駅を結ぶ全長60.2Kmの路線であるが、国府津から35.5Kmの御殿場の標高が455mであるから凄い山岳鉄道でもある。
特に難所であった山北−御殿場間は19.6Kmで標高差345mを登る。平均斜度は17.6‰、山北駅を出て暫くと途中の小山駅辺りには
ほぼ平坦路線部分もあるので、この区間の登りの大部分は国鉄幹線の最大勾配である25‰(1000m行って25m登る)であると思われる。
スイス山岳鉄道の雄、レーティッシュ・バーンは電化されているが、機関車牽引の粘着運転の列車が40‰の勾配を登る。
これに比べたら、御殿場線など大した勾配では無いように思える。しかし、御殿場線は只の山岳鉄道では無かった。
昭和9年の丹那トンネル開通まで、まだトラック輸送など微々たる時代の東国と西国を結ぶ大動脈として日本の産業を支えてい
た東海道本線だったのである。実際、鉄道唱歌オリジナル版は国府津から御殿場線に入って沼津まで行き沼津で現在の東海道線に戻っていく。
現在御殿場線と呼ばれている区間が開通したのは1889年(明治22年)2月1日、東海道線の東京-神戸間が完全開通したのが同年の7月1日、
これにより、東京-神戸間は20時間余りで結ばれる事になった。開通から5年後に起きた日清戦争では兵員と物資を東から西に運ぶ軍事鉄道として活躍した。
さらに1901年6月11日には全線が複線化され、3年後の日露戦争では飛躍的に輸送力を増していた御殿場線は日本の勝利に貢献したのであった。
東海道本線の名残は、全線が複線の線路敷地を保ち、路線の各駅は広大な駅構内を保っている事からも窺がえる。
現在は半分は捨てられ雑草に埋もれている煉瓦造りの堂々たる鉄橋の橋げたなど、成り上がり者ニューマネーには無い風格がある。
左富士 2009年2月。

国府津駅を出て間もなく富士山が左手に見えてくる。
基本的に西に向かっているのに、左手に富士山が見えるというのは不思議であるが、
この辺り、御殿場線は北西に向かって走るので、富士山は左手に見える事になる。
手前の山は総称で足柄山、金太郎のホームグラウンドである。左の丸い山は矢倉岳。
山北−駿河小山間。 旧東海道本線の橋梁と半分廃線の橋梁跡。

御殿場線が単線になったきっかけは戦争中の金属供出で、まあ真っ先に狙われたであろう事は想像に難くないが、全線が単線になったのは
昭和19年7月11日の事だった。
旧東海道本線の遺構は全線に色濃く残っているが、鉄道唱歌に歌われた山北と小山の間の線路と酒匂川とその支流が交錯する難所に残る
複線時代のトンネルや鉄橋の廃墟が一番見ごたえがある。
急勾配でカーブとトンネルが続くこの区間は、蒸気機関車殺しの大変な難所で、特に重い長大編成の貨物列車は
沼津と国府津で箱根越え用に列車編成を整え、途中の山北駅で停車して後部補助機関車を付け加えるという運転を行った。
使われた機関車は9800型、9850型、マーレー式(ベビー・マーレーではあったが)の9750型、C51型、9600型、D50型などであった。
1930年(昭和5年)運転開始の日本の看板列車『超特急;燕』は電化されていなかった現御殿場線区間をいかに早く通過
するかの工夫の為、電化されている区間を含めて全線をC51乃至C53が牽引、国府津と沼津で後部補助機関車を素早く取り付け、
上り列車、下り列車とも御殿場を過ぎたところで走行中の補助機関車切り離しを行った。
貨物列車の補助機関車の基地であった山北駅は現在でも山の中に忽然と現れる広大な面積の駅である。
駅構内に展示してあるD52型蒸気機関車は、昭和19年から投入された牽引力日本最強の蒸気機関車で、元は東海道線という
御殿場線の強固な路線だからこそ運転が可能であった超重量級機関車である。この機関車は昭和43年に御殿場線が全線電化されるまで
働き続けた。
『お山の中行くきしゃぽっぽ』という童謡には前後に蒸気機関車が付いた列車編成が登場するので東海道本線として華やかりし頃の御殿場線ゆかりかもしれない。
(東北地方のとある峠越えでも、機関車が前引き/後押しの運転をしたらしいのでどっちかであろう)
この区間の蒸気機関車の運転はタイムマシンが出来たら見に行きたい光景の一つである。


小田急線乗り入れの特急『あさぎり』が止まっている。
『あさぎり』は新宿−松田−御殿場−沼津を結んで走る。
グリーン車に二階建て車両があるが、カーブが多いので揺れが非常に堪える。逆にグリーン車の下の普通席は揺れが少なく狙い目である。
小田急線のホームの面が目線ぎりぎりで、途中の駅のホームの人はまさかそんな位置に他人の目があるとは思っていないというスリリング(?)さ。
本来複線の線路用地を持つので、非常に余裕がある線路の敷設。駅の敷地も大きくホームは
どの駅も非常に長くとにかくどこもかしこも矢鱈余裕がある。
足柄駅−御殿場間の御殿場駅近く。2009年2月。

御殿場という土地は標高がそれなりだけに結構寒いのであるが、茶畑が広がる。
裾野の大体標高300mから上の土地から御殿場にかけては梅雨から夏の始め、小笠原気団が前線を押し上げると前線に向かっての湿った南風が
冷えた山体に触れて濃い霧が発生し湿った嫌な陽気が続く。
本格的な夏の気圧配置になって日本列島が高気圧にすっぽり覆われてしまえば炎熱の下界を他所に爽やかな夏になるのである。
♪遥かに見えし 富士が峰
♪早や我が傍に来たりけり
♪雪の冠 雲の帯
♪いつも気高き姿にて
我が傍に来たりけり、と相対性理論が適用されている。
富士岡駅ホームから。2009年2月。

単線運転の御殿場線は、そんなに本数が多くない筈なのに上下線のすれ違いの為に乗客の感覚では駅毎にと思われる位頻繁に待ち合わせる。
富士岡駅は御殿場線全線中でホームから遮る物無く富士山が見える唯一の駅である。
ただし、第2東名高速の高架が完成して風景を大いにスポイルしてしまっている。

駅のすぐ南に旧スイッチバック線路の土手を利用した富士見台という展望台がある。
ここは、自称で、日本に数ある『富士見台』中最高の富士見台であり、近所の人に聞いたのであるが、古い時代の国鉄総裁がこよなく愛した
場所なのだそうである。
この土手からはるか沼津方面に海(駿河湾)が見えるが、現在の御殿場線はこの土手の下を通過するのでここからでは車窓から海は見えない。
右は今は線路も無いスイッチバック引込み線跡、海は画面中央の黒い林のラインが少し窪んでいるあたり。



綺麗な夏富士である。
この辺りの田植えは5月の連休頃であるので、水田なら田植えが終わっている筈であるが、水が入っている様子が無いのは稲作を休止中の田んぼであろうか。
風景としては水田が欲しい所である。
富士岡−裾野間は場所により、前景が切れ富士山の全容がこのように見える。
カメラを構えて、電柱と前景の木、建物をやり過ごしながらチャンスを伺う。
岩波−裾野間車窓から海(駿河湾)。2009年4月。

御殿場線車窓からは、国府津駅付近を除くと海が見えないが、岩波から裾野に向かう途中で一瞬だけ、それもなんと右側の車窓からだけ見える。
写真の真ん中大きな屋根の右側に僅かに白く写っているのが駿河湾、背景は駿河湾を隔てた伊豆の山々、手前は沼津の香貫山(かぬきやま)。
♪沼津の海に聞こえたる
♪里は牛伏・我入道
♪春は花咲く桃の里
♪夏は涼しき海のそば
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町の南、港に近いホテルから。
2000年12月。
沼津駅は東海道線が現在の御殿場線だった時代には、汽車の足柄道越えの為の編成替え基地駅で、東海道線最大の面積の操車場を備えていたという。
従ってこの操車場の東側は、現在の御殿場線の方を向いていて、云わば後付である東海道線は脇から盲腸のようにチョロッと出ているに過ぎない。
このことは、足柄道の東側基地駅の国府津にも言えて、御殿場線が国府津に近づくと、右手に大きく旧操車場、現在の東海道線電車基地が広がっているが、
東海道線の線路配置は国府津駅に於いても付け足しにすぎない。
沼津駅は30年前にはまだ大操車場の面影があったが、今や大操車場は駐車場や建物に侵食されつつある。
手前は愛鷹山(あしたかやま)。富士山のほぼ真南の斜面を見ている事になる。黒く見えるのは暖冬だからではなく、積雪が西風
(静岡県の典型的冬の季節風で西高東低の冬型気圧配置になると西向きの強風が晴天下に吹き荒れる)に飛ばされてしまうからである。
愛鷹山は70万年前、富士山の大元になった小御岳噴火という火山活動でできた山である。富士山はその後、2万年前の古富士噴火、
約5000年(たった5000年!!!)前から1707年の宝永噴火まで続いた新富士火山活動と続いて現在の姿になった。
従って愛鷹山は富士山のおじいさんの兄弟にあたる。
愛鷹山は、小松左京の『日本沈没』では活火山に海水がなだれ込む最初の現場になる。

積雪の直後の白きたおやかな峰と、強い西風で雪がめくりあげられている飛雪姿。日本海側大雪の強い寒波の時など半日で西と南の斜面は真っ黒になってしまう。
交通機関関連施設で富士山が見事な所としては、三島駅の他に東名高速の富士川PA,足柄PA、御殿場線富士岡
(第2東名で大分スポイルされた)などがあげられる。

2005年12月、12月としてはというより、寒波の歴史を紐解いても強力な部類に入るという大寒波が襲ってきた。12月6日頃から関東は晴天で
北風が吹き始め、12月13日は凄い風であった。12月14日の朝の富士山は強い西風で雪が飛ばされ、さながら夏姿になっていた。
12月17日朝、月齢17日




朝から強い風で、富士山は山体の形の雲にすっぽり覆われ、雲の端は横浜から向かって右、北東の方向に流れている。
これは富士山に西高東低の等圧線に直角の強い西風が当たっているからで、雲の下は一応雪が降っていることになっているであろうが、
積雪より飛雪の方が多いと思われる。時間が経つにつれ、風が少し弱まり、富士山の雲も切れ、夕方には山肌を表わした。






21日はやや寒気が緩み、関東地方も雨の可能性が伝えられたが、午後から又寒波。しかし22日朝、強い西風の三島駅からの富士山は
一転真っ白。ふんわりの雪ではなく斜面に貼り付いただけのようではあるが、二日前の姿が信じられない。
しかし、三島の西風は富士山に文字通り風雲を呼ぶ。午後1時にはかなり剣呑な姿になっていた。

小田原から東に来ると、箱根の影響で平地の天気も変る事があるが、富士山も
西風の風下になるので雪がめくられず、御殿場正面の凹凸が少ない面をこちらに向けるので、冬は概ね白い姿になるが、こんなにべた真っ白は珍しい。
この付近で時速200キロ以上で走る新幹線車窓から富士山の写真を撮るには、目視で電線が入るのを予測し、これを避けてシャッターを切るのは勿論であるが、
線路際に画面にいつ入るか予測不能な電柱や架線支柱があるので、できるだけ沢山撮って数で勝負する事をお奨めする。
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静岡県富士市の富士川河口付近、すなわち田子の浦の富士は万葉の昔からの名富士である。
確かに、標高ゼロから3776mの山頂まで一気にかつほぼ180度開いたこの光景は日本を代表する絶景である。それが東海道新幹線の車窓から
見えてしまうと言うのが凄い。
西から東京に向かうとき、富士山は浜松過ぎ辺りから見え始める。しかし建物や前衛の山々に邪魔されてなかなか
全容を現さないが、富士川鉄橋を過ぎて富士山が愛鷹山に隠れるまでの約1分間富士山は全貌を現し、そのうちの数秒間は前に邪魔物が殆ど無い
状態になる。
雪の下限がはっきり線になっているのは、森林限界線に沿っているからで、黒く見えるところまでが樹林で、白いところには樹木がない。
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御殿場から山中湖付近にかけて、篭坂峠から見え隠れする富士山の姿、特に
山中湖は富士山の東北東にあたるので、富士山を北北西から南南東に向かって並ぶ溶岩噴出口列に正対して見ることになる。
このため富士山の稜線は最も長くなだらかになるが、寄生火山があちこちに見えて稜線がすっきりしないし、基本の姿が非常にたくましく
山頂付近の巾も広い。
ほんの少しの角度の違いであるが、河口湖からの方が頂上付近がより細身になるので格好良く見える。
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三国峠とは山中湖畔の平野から駿河小山へ、丹沢山系の一番西側を越えて抜ける峠で、篭坂峠が整備された今、実用的な価値は
あまりなく、山中湖側のこの眺めのために存在しているような道である。
名前の由来は、甲州、相模、駿河の三国の境を行く道と言う意味であろうか?。
山中湖と富士山の展望は山中湖からは車なら10
分そこそこなので、山中湖畔から富士山が見えたら行ってみて損はない。
画面右の山の上にある白い建物はホテル・マウント富士で、宿泊中に富士山が見えなかったら御代割引という噂がある。
また北富士演習場を見下ろすので、大砲の射撃、弾道が見えると言う事も聞いた事がある。
恥ずかしながら私も30年以上の昔、新婚旅行で泊まったが翌朝の富士山は見事であった。
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天下富士とは、河口湖から清水の次郎長の宿敵、甲州は黒駒の勝蔵親分で有名な黒駒に抜ける御坂峠の天辺から見る富士山の事である。
御坂峠は1967年に現在の新御坂トンネルが出来て、旧峠は一気に寂れ、峠の茶屋である天下茶屋も廃屋になり、さらにぺちゃんこ
に潰れてしまった時代もあった。今では茶屋も復元され営業しているらしい。
実際ここからの景色は雄大かつ繊細で実に美しい。三日三晩の山行の末見られる景色の中にはもっと凄いのがあるかもしれないが、歩かず息も切らさずに
見られる山の絶景としては日本一と言い切って良いであろう。
太宰治は全く破綻が無いこの景色に様々な難癖をつける事で絶賛している。
御坂峠を越えて甲州に入るなら4月初旬である。そこはまさに桃源郷である。富士山は見えないが晴れていれば白根三山の白銀の峰が迎えてくれる。
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現1000円札の富士山像である。
富士五湖中最も西にある本栖湖からはもう南斜面が見え始める。
富士川沿いから下部温泉を抜けて登る道は相当な斜度と曲がり具合であり、途中の眺めも良い素晴らしい峠道である。
そして登りきって小さなトンネルを抜けると右側にいきなり本栖湖と富士山が広がる。
登り切ってしまうと、コモ湖からサンモリッツに向かうマロヤ峠のように頂上からの下りは殆ど無く、富士山麓の平原になっている。
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精進湖の近くにある、富士山と青木が原樹海の絶好の展望台であるが、紅葉台頂上の富士山側に売店兼茶屋が建っている。
富士山と自然な展望位置の間に人工障害物を置き、観光客から最大限金を取ろうとするのは、本来広い景色をちまちまと
囲った忍野八海同様に富士山を観光資源としているのではなく、喰いものにしているわけで、私は好きではない。
甲州商人めが、と思ってしまう。(富士山が見える事を売り物にしている建造物所有者全部を否定しているのではありません)
また、紅葉と言っても標高が高いこの辺り、秋にも紅葉する植物は少なく、カラマツの黄葉が目立つのみである。
この眺めの地形は西暦864年の爆発で作られたもので、この時、富士五湖の西の三つが分断され、溶岩流で青木が原ができた。
分断された三つの湖は地下で繋がっていて、水面標高は共通の902mである。
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山中湖を過ぎて河口湖に向かってすぐ、河口湖への道路から大きく右にそれて行ったところに、
古代の湖の後であったという湿地と湧水池が点在する忍野がある。
本来絶景の所で、富士山の形も宜しく、大好きな場所であるのだが、今やちまちまと分断され、囲いや塀を作って、あれを見たかったらあと幾ら、
ここに入りたかったらこの店で買い物必須、この塀の内側から富士山を見たかったらなんぼ、と無茶苦茶に横暴に金を取りたがる新宿歌舞伎町
みたいなところになっている。
2003年夏、20年前はこんな悪場所ではなかったのだ、と案内した人に謝る羽目になった。
先日訪れた神戸の異人館街でもこの『金儲け手段としてしゃぶり尽くす』スタンスを感じた。横浜の異人館街のおおらかさと随分違う。

田貫湖はもう静岡県で、富士五湖には属さない。富士山の真西に位置する小さな湖で、剣が峰(3776m)が右端に非常に目立って見える。
剣が峰直下の大沢崩れも真正面に見えるので、天下富士の優美な姿とは大分様相を異にする。
真西という特殊な位置関係で、季節限定ではあるが、富士山頂からの日の出が見られる事で人気がある。
本栖湖から富士宮に向かって富士山の西側を南下する道路は非常に気持ちの良いドライブウェイである。
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富士山の東斜面は富士山全周の中で最も山襞が少ない。また強い西風にも当たらないので冬は兎に角真っ白という姿になる。
太郎坊下の米軍の射場付近、赤いポールは実弾射撃場であることを示している。
山襞が少ないというのもこの強い西風のせいで、噴火口から火山弾や礫が西風に流され、富士山の東斜面にたまりやすかったためである。
斜面も富士山としては最も緩く、下山では有名な砂走りと呼ばれる砂礫の大斜面を駆け下ることになる。

毎年8月行われる富士登山駅伝

富士山スカイラインの二合目付近から。
北側の富士スバルラインは環境破壊の見本とされるが、こちら側はあんまり非難されないのはなぜか?。
確かに道路としてはこっちの方が狭く険しく走りにくいので逆に環境と妥協しているのかもしれない。
下りでは、車はスピードにおいて、プロ級の人が多い自転車に到底かなわない。
この写真では剣が峰に今はない気象観測用レーダードームが見える。標高2450mの高さまで車で行ける場所というのはヨーロッパアルプスにも
そんなに数多くはない。
しかも富士山は独立峰であるから天気さえ良ければ遮るものとてない人生観が変る思いがする景色を気軽に楽しめる。
積雪期は閉鎖であるが閉鎖されていなければ無料。
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先の沼津からの富士山と同じ日。
箱根からだと、宝永火口の東になり、
御殿場の正面の滑らかな面が見えるので冬でも白く見える。

箱根スカイラインへは、裾野市岩波から深良用水沿いに登る道路がある。この道路を使うと、
箱根スカイラインと芦ノ湖スカイラインの中間にある駐車場
に出られるので、両スカイラインに無料で入り込める。
但し、長尾峠側からも箱根峠側からもお金を払わないと出られない。つまり、岩波から入ってまた岩波に下りてくる時だけ無料である。
箱根スカイラインはもう40年以上に亘って車のデモンストレーションに使われ続けている観光道路で、
今でもテレビで新車が走る場面はお馴染みである。
大野原のススキの広がりを載せた(地図上で描くと同心円状になる)斜面は南で愛鷹山、東で箱根にぶっつかるまでなだらかに広がっている事が判る。
面白いのはこの広大な面積を水源とする川が主に箱根の西側斜面の水を集める黄瀬川しかないことで、富士山側の雨はスカスカの溶岩を通って
伏流水になる分が圧倒的に多いらしい。伏流水といえば、有名な柿田川湧水は一見の価値がある。国道1号線沿い、大規模ショッピングセンターのすぐ脇、
こんな所に!!と驚くような場所である。
夏には東のみんみん蝉と西のくま蝉の競演(同時鳴き)や、セキレイなどに出会える。
この富士山と箱根の間を通って、足柄山で分水嶺を越え、酒匂川流域に出る山越えは足柄道として大宝律令で駅が整備されたという極めて古い東国と
西国を結ぶルートだった。しかし、経路が長いことを嫌われ、西暦800年、802年と続く富士山最後の山頂大噴火活動による一時閉鎖を期に
険しいが短い箱根越えルートにとって替わられている。
富士山の山頂噴火は大規模にはこれが最後であるが、小規模にはその後も続き、だいたい平安時代中期までは頂上から噴煙をあげていたらしい。
新しいルートとして開拓された箱根峠の小田原側の険しさは新春の箱根駅伝5区の山登りでも判るが、三島側も半端ではなく、
麓との標高差860mというのはヨーロッパアルプスの2000m越えの峠道級である。
東海道線も鉄道の箱根峠越は不可能なのでまずこの足柄道を通し、時代が下って技術が出来てから箱根の下に丹那トンネルを掘った。
この丹那トンネルの工事は、活火山である箱根山の下をえぐり、伊豆半島と日本列島本島の境界面の破砕帯を突破する7804mの歴史的難工事で、
16年間の歳月と67名の犠牲者を出して1934年に完成した。東海道本線の丹那トンネルを通る機会にはこの難工事への敬意を持ってしかるべきである。
東海道新幹線はこの丹那トンネルをパイロット・トンネルとし、30年間の技術の進歩を以って工期5年間で新丹那トンネルを通し、1964年の開通時から
箱根越えである。しかし、現在でも、JR御殿場線、国道246号線、それに東名高速道路が足柄道を抜けている。
険しくても短い方が良い、という選択は徒歩時代には常識だったらしく、この足柄道も、現在の御殿場から酒匂川沿いに
松田方面に出るルートではなく、折角下りかかった御殿場線足柄駅付近から直角に右に曲がり猛然と足柄山を登る足柄峠越えで松田に抜けていた。
現在の御殿場線沿いの足柄道なら峠らしい峠なしに東国に出られるのにと思う。
当時の土木技術では蛇行する酒匂川に忠実に沿ったうねうねとした道しか作れなかったであろうから非常に遠回りになってしまうのを嫌われたのであろうか?。
そういえば『夏の医者』のお医者さんも落語国のとある山を迂回するルートを嫌ってうわばみの住む山越えを敢行して呑まれしまっている。
足柄道が山越えルートとして優れている事は、この地方が台風に襲われた時、意外にも運休・交通止めになるのを最後まで粘るのは足柄道ルート側で、
東海道線はいつも真っ先に運休になる事からも判る。東海道線のネックは意外や三島-沼津間にある黄瀬川鉄橋で、普段はちょろちょろのこの川はあっという間に
増水するらしい。

足柄山といえば金太郎である。日本人なら誰でも知っていると言いたいこのお話、ライバル桃太郎が始めから終わりまで正しく話せる人が多い
(桃太郎を話すインコも居る)のに対して、
意外やちゃんと知っている人は非常に少ないのだそうである。金太郎のお話のキーは三つ。『足柄山で、金太郎と呼ばれ熊と遊んでいた』
『偉い武士(源頼光)に見出されて家来になって都に上がり、強い侍(坂田金時(公時))になった』『大江山で鬼(酒呑童子)退治をした』
でこの三つを固有名詞の精度はともかく並べられないと金太郎のお話を知っているとは言えないそうである。
童謡『桃太郎』が生い立ちから始め、鬼が島から宝物をぶん獲って凱旋して来るまで歌われるのに対して、『金太郎』はどこまでもはっけよいのはっしどうの
と遊んでいるばかりの差かもしれない。
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富士山頂の角度から富士五湖で云うと山中湖と河口湖の間で、成田からシベリア経由のヨーロッパ便が日本海に抜ける航空路との交点を求めると
群馬県の館林市の上空辺りではないかと思われる。画面右に見える山脈は赤石山脈であろう。間の中低層の山々は秩父、下に見える川は利根川か?。
この直前、2000年の夏から秋は猛烈なユーロ安旋風が吹き荒れ、1ユーロが一時80円台になるという物凄さで、
ユーロ圏内に工場は持ったものの原材料の現地化までは完了しておらず、日本から主要原材料を輸入していた日系製造業としてはそのコスト
アップで損益分岐点売上高も何もない
状況に追い込まれ、
その対応に御本社に呼び返されての帰りである。従って、この時も一番安い変更不能エコノミー・チーパー・チケットで乗っている。
このユーロ安は12月始め、日本行きの飛行機に乗らんとするその頃から劇的にユーロ上昇に転じたため、
御本社での会議の空気はそれ程深刻ではなかったと記憶している。
飛行機から見る富士山というと、魔の1966年、一説では富士山が良く見えるようにと富士山に近づき過ぎ晴天乱気流に巻き込まれたという
BOAC機(英国海外航空;当時)の空中分解事故を思い出すが、
国内線で羽田を出て西に向かう航空路には横浜上空を通って富士山に向かい、山梨県の甲府盆地南側上空を飛ぶものもあるので機上から
富士山を見たことがある方は多いと思う。
九州からの団体旅行で、片側に富士山が見えるという声に一同どっとそちら側に寄った為飛行機が傾いたという冗談がある。
実際富士山が見えない所の人が地理的に富士山が見える筈の位置に来た時の富士山への憧憬は凄い物があり、
アジアからの観光客は日程に富士山が入っている場合はその日が土砂降りであろうと台風が来ようと富士山に向かわないと承知しないそうである。
私の経験でも外国からの客人を案内して雨の三島駅に着いた時、『この方向に富士山がこーんな大きさで非常に美しく見えるの事よ』と申し上げた瞬間、
客人がその方向を見て固まってしまって動かなくなったという事が二回ある。
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